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Kazunori Maggot Ohki
『PARIS 2003 Projects』(2003)

100年前にユジューヌ・アジェという写真家がいた。彼は写真そのものが誕生してまだ間がないときに箱形カメラを抱えてパリの町をひたすら撮り歩いていた。ただただパリの町のビット・オー・カイーユ(Butte-aux-Cailles)の片隅に"rue Eugene Atget"と名付けられた小道があるのをたまたま出発前にmappy.comで見つけた。それはほんの偶然だった。 そうなると、何としてもその場所へ行かねばならない。

行ってみてビックリした。ひとつはその道がおよそAtgetらしい道ではなかったこと。ビット・オー・カイーユの丘から下って集合住宅の下を抜ける何てことはない道だった。おまけに住所を示した看板にはシールまで貼られていた。もうひとつの驚きは、そのすぐ脇に公園があって、それに"Jardin Brassai"と名付けられていたこと。まさか、ここでAtgetとBrassaiの二人に出会うとは。。。。

rue Eugene Atget (13e arr.)
Jardin Brassai (13e arr.)

100年前にユジューヌ・アジェという写真家がいた。彼は写真そのものが誕生してまだ間がないときに箱形カメラを抱えてパリの町をひたすら撮り歩いていた。ただただパリの町の記録としての写真を撮り歩いた。荒木経惟も森山大道もハナブサリュウもアジェの残した写真に魅せられて、パリの町を撮り歩いたのだ。

旅行に出かける前に、ネットでEugene Atget Project 2002を見つけた。さらにそこから、96年アジェ計画を成し遂げたGerald M. PanterのAtget's Paris: Then and Now も見てしまった。(96年アジェ計画については、17日にヨーロッパ写真美術館に行ったとき、その写真集を発見。重いから買わなかった(^_^ゞ)となると、じっとしてられなくなって、そっとTASCHENの『ATGET'S PARIS』をかばんにしのびこませていた。

アジェの作品には、例えば《25 rue Charlemangne》というように撮影場所データがほとんどについている。だから直前になってmappyで、《25 rue Charlemangne》と検索すればおおかたの位置が知ることができた。そして多分自分が歩き回るだろう地域で20ヶ所くらい地図にチェックも入れた。

それでも30年ぶりのパリは、ほかにもいろいろと見たいものは山ほどあって、アジェにばかりかかってるわけにはいかない。それに意外とポイント探しというのは退屈なことはわかっている。ガイドブック(『ATGET'S PARIS』はガイドブックじゃないが)で見た場所に行き、その場所で記念写真を撮ることで満足してしまう旅なんて、と日頃からバカにしてたから、時間があれば、アジェの写した場所に行ってみたいなというくらいにしか考えてなかったのだ。

さて、いよいよパリ。初日14日はルーブル、ポンピドーで疲れきって、ノートルダムの前を通り、サン・セブリン教会のところを通って、やけにカフェやレストランが多くて、人がいっぱいで、『パリの横丁・小路・裏通り』(早川雅水著 実業之日本社)で読んだ印象とはずいぶんちがうなぁと思いながら、確か、このあたりにもアジェが写したポイントがあったはずと通り過ぎてしまった。少しだけそのまま歩くと、裏通りでやけに静かで行き止まりっぽい道に入った。ん、ひょっとすると、これはロアン小路に入るところかと地図で確認。しかり。そのロアン小路は『パリの裏通り』にもいま歩いている「ジャルディネ通りから入るのがいちばん」と書かれてた。それに何と言ってもアジェの写したロアン小路の写真は印象に残っていた。ラッキー!

ジャルディネ通りがロアン小路となるところには門があったが、これは開かれたままになっていた。その門を入ると、まさにたしかにアジェの写真の印象が甦ってきた。うん、うんと、自分一人でうなづいてちょっと興奮。実はその日は『ATGET'S PARIS』は持ち歩いてなかったのだ。先にも書いたように、ポイント探しに終始してしまうのがイヤだったし、それに小さい本とはいえ重いから。

ロアン小路を抜けてサンタンドレ通りの方に出る門は閉まっていた。『パリの裏通り』には、「門は閉まっていても押してみなさい」と書かれてあったが、その本からもう5年ほど、その間に、時代の趨勢なんだろう、きっちりセキュリティシステムがこのロアン小路にも入ってきていた。それはそれで仕方がない。ある程度、パブリックな通りでなくてプライベートな小路なんだから、ヨソ者がずかずか入り込むのもどうだか。というわけでおとなしくそこから引っ返して、ロアン小路の反対側に回った。

ところでロアン小路の反対側にはプロコップというパリで一番最初にできたというカフェがあって、ランチなんかはそう高くないというふうに『パリの裏通り』には書かれてあった。表に貼られたメニューを見ていると、夜はそうでもなくて、カフェというよりきっちりしたレストラン。お呼びじゃない、というわけでもないのだけれど、スペインあたりから腹の調子が疲れ気味で、きっちりとレストランで食べようという気にもなれなくて、機会があればお昼に食べに来ようと断念。結局、パリ滞在中はお昼の時間は、いつもどこかをほっつき歩いていたのでプロコップでお昼というのは果たせなかった。

デジカメのメモリは128Mを2枚持って行ってたのだが、2週間の旅行で足りるわけがなくて、1日1枚でも足りないというのはわかっていたから、夜ホテルに戻ると、デジカメのデータを、G4ノートに移すのが日課になっていた。その夜は、写してきたロアン小路とアジェのロアン小路を比べようと、『ATGET'S PARIS』を出してきて見てた。う〜ん、だいぶ角度が違うよな、せっかくなんだから同じ角度で撮ってみたい、あしたもういっぺんロアン小路に行こう、なんて考えていた。そうしてぱらぱらと他の写真も見ていてビックリした。


《Coin des rues de Seine et de l'Echaude-Saint-Germain》


荒木経惟が『10年目のセンチメンタルな旅』で「シャッターひと押し、アジェを越えた」と書いてるように、鋭角に道が交わったところというのはとてもフォトジェニックで、こっそりボクは「アジェする」なんて言うてんだけど(笑)、碁盤目の日本とちがって、放射状のヨーロッパは、そのアジェできるところがいっぱいある。いっぱいあって、はじめのうちは喜んでアジェしてたんだけど、そのうちよっぽど気にならないとアジェしなくなった。

ところでこの朝、ホテルのあるジャコブ通りからルーブルに行こうと、ドラクロワ美術館に寄ったあと、セーヌ通りに出たところでふっとアジェしていた。な、なんと、いま目の前にある『ATGET'S PARIS』の写真は、その朝、ボクがアジェしたのと同じじゃないか。これには興奮した。自分が写したデジカメ画像と『ATGET'S PARIS』を交互に見比べた。まるでアジェが黙ってボクをその場所に引っ張っていき、シャッターを押させたような。ふつうじゃ行き着かないロアン小路にも。事実、地図はもってはいたけれど、適当に歩いているうちにロアン小路に続くジャルディネ通りに入り込んでいたのだ。まさにアジェに手招きされたとでもいうように。

それにはっきりどことはわかっていないが、アジェのかつてのアパートは、セーヌ左岸のまさにジャコブ通り近くだった。だからそのポイントをアジェがカメラに収めていても不思議じゃない。アジェの写真に5区が非常に多いのもそのせいなのだ。ボクはアジェのアパートがそのあたりにあったというのを、パリのホテルをジャコブ通りのマロニエに決めてから知った。余談だけれど、マレのジャンヌダルクにするか迷っていた。これもあとでわかったのだけれど、ジャンヌダルクは森山大道が最初のパリで滞在したホテルだった。となると、森山大道というより、やっぱりパリはユジューヌ・アジェにおびきよせられたとしか考えられないんじゃないか。

こうなると、かっこつけて、ポイント探しに終始するのはつまらないなどといってられなくなった。つぎの朝、一番にアジェが写したであろう位置を探す。『ATGET'S PARIS』を手に同じ角度に見える位置を探す。路上駐車のクルマが邪魔。う〜ん、このクルマの位置か、もうちょっとクルマの後ろか。そうすると、クルマで道路が写り込まなくなるじゃないか。そうして何枚か写した。もちろんデジカメだけでなく、銀塩でも。焦点距離がアジェのカメラと違うから思うように収まりそうで収まらない。そうして『ATGET'S PARIS』と見比べながら、狙うのにすっかり夢中になってしまった。

100年前のアジェと同じ位置に立って、同じほうにレンズを向けるという、ちょっとした興奮がたまらない。何の変哲もない建造物にカメラを向けているけったいな日本人。その日本人を見ていたおっちゃんに思わず、『ATGET'S PARIS』を示して、「100年前と同じだ」と英語で口走ってた。気のいいおっちゃんは「うんうん同じだナ」とうなづいてくれた。

そうしてその後、10数ヶ所、あまり見つけにくい場所ではないけれど、いわゆるアジェ・ポイントを写した。中にはすっかり変わってしまったのもあった。確かにこの場所のはずなんだけれど、と思案しても、全く消滅してしまったものもある。100年の時間の流れの重さを感じ、それでも見つかったときには、100年という時間を越えた歴史を見ているようで楽しかった。